人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ラム・ダス  「いま・ここ」に在ること

ramdass.exblog.jp
ブログトップ

ご報告

前回このブログを書いてからずいぶん月日がたってしまいました。
(ラム・ダスは2019年12月22日にマウイ島で、肉体を離れました。)
今現在このブログを見にきていらっしゃる方がどれほどいるかわかりませんが、
ブログを書くきっかけになった『覚醒への糧』という本についてご報告があります。

この本を出版していた出版社が今年の始めに倒産してしまい、
『覚醒への糧』は、現在、通常の書店に出回らない状態になっていると思います。
Amazonで検索をすると、古書を取り扱う店などが販売をしてるようです。
この本の訳者として、本が出回らなくなってしまうのが大変辛く、残念で、
現在、出版社の倉庫にあった在庫をできるだけ買い取って
訳者である私の手元に引き取ることができるようにする方向で話を進めているところです。
もし買い取ることができましたら、なんらかの方法で、欲しい方の手元に届くように、
知り合いがいる書店や、このブログを通してなど、販売をする方法を模索したいと思っています。

久しぶりにAmazonのこの本のページを開いたら、
昨年8月に次のようなレビューを書いてくださっていた方がいました。
失礼して引用させていただきます。

「やっと読み終わりました。素晴らしい本です。大島先生の翻訳も素晴らしい。
ここに答えがあります。
私は道半ばで死んでも、またこの本を探し求めることでしょう。わかっている人がこの世界にいる、いた、
この事実だけで私はきっとなんとかやっていける。
ありがとう。」

訳文は到底、私だけの力でできあがったものではないのでそれに関しては身にあまる言葉ですが、
訳者とはいえ、自分自身がこの本の内容を日々生きられているわけではなく、
忘却して夢遊病者のように生活してしまっていることを反省させられる日々です。
そうであればこそ、一層、このような感想を持たれた方のもとへ、この本が届いたこと、
それが心の底からうれしく思いました。こちらこそ、ありがとう。


# by rd-beherenow | 2021-07-04 14:58 | ラム・ダス

クリシュナ・ダス

来月6月末に、クリシュナ・ダスという
キルタンのアーティストが
11年ぶり、二度目の来日をして、
横浜と京都でコンサートとワークショップを開催します。
クリシュナ・ダスは、ラム・ダスを通して
ラム・ダスの師ニーム・カロリ・ババと出会い、
その後、キルタンの歌手として世界中で歌い続けています。
2013年には、アメリカのグラミー賞のニューエイジ部門に
ノミネートされたこともありました。

キルタンとは、インドの神様の名前などを
音楽に合わせて繰り返し歌う聖歌の詠唱です。
リードの役割をする人は、
ハルモニウムと呼ばれる
アコーディオンを横にしたような
インドのオルガンを弾きながら、
たとえば「オーム・ナマ・シヴァヤ」などの
神様を讃えるフレーズを歌い、
その後に続いて、聴衆がそれを繰り返して歌います。
その後、メロディと歌詞が少しずつ変化しながら、
リードの歌い手の後に続いて、聴衆が歌っていきます。
このようにコール・アンド・レスポンスの形で
キルタンは続きます。

クリシュナ・ダスがキルタンと出会ったそもそものきっかけは、
ラム・ダスでした。
ラム・ダスは1960年代後半に、
インドで師ニーム・カロリ・ババに出会って時間を過ごし、
その後インドからアメリカに戻りました。
クリシュナ・ダスはインドから戻ったラム・ダスに出会い、
ラム・ダスがアメリカをまわる際に、
一緒にアメリカ全土をまわりました。
そしてその後、1970年8月に、クリシュナ・ダスは、
ラム・ダスの師に会うために、
(ロックスターになるという夢を捨て)インドに渡りました。
インドに行くとき、クリシュナ・ダスは、
自分の持ち物のほとんどすべてを手放して発ったそうです。

クリシュナ・ダスはインドで3年近く過ごしました。
そしてある日、突然、マハラジ(ニーム・カロリ・ババ)から、
アメリカに帰るように言われたのです。


----------------------------------

師の前に座りながら、師に会う最後の瞬間は
いったいどんなことになるのだろうかと思い、私は困惑した。
アメリカを去る時、私はすべてを、
持っていたジーンズさえも手放していたのだ。
ずっとインドにいるのだろうと思っていた。
それなのに今、アメリカに送り返されるというのだった。
どこへ行けばいいのだろう。何をすればいいのだろう。
私はパニックになりながら思った。
私は、アメリカに戻ったら何をすべきか、
師に尋ねたいと思っていたわけではなかったが、
怒りの気持ちがこみ上げてきて、
つい口をすべらせてしまった。
「マハラジ! アメリカでいったいどうやって
あなたに奉仕すればいいのでしょうか」

 マハラジはあきれたようなうんざりした様子で言った。
「なんだと。どのように奉仕すべきか、わしにたずねたら、
それはもはや奉仕ではない。
やりたいことをやりなさい」

この言葉で私の頭は混乱した。
そしてマハラジは笑いながら言った。
「それで、おまえはわしにどうやって奉仕するのかね」
私の頭のなかは真っ白だった。

師のもとを去る時がきた。
私は立ち上がって中庭を歩いて行った。
そして遠くから師を見てお辞儀をした。
その瞬間、心のなか、私のハートの深いところから
自分の声が聞こえた。
その声はこう言っていた。

「私はアメリカであなたのために歌います」
(か細い声で。英語原文、この箇所は小さな文字)

クリシュナ・ダス『Chants of a life time(人生の歌)』序文より

-------------------------------------------

アメリカに帰国して6ヶ月後、
師であるマハラジが肉体を離れたという知らせが
クリシュナ・ダスのもとに届きます。
彼はその時、自分の人生は終わったと思ったそうです。
かなりの間、落ち込み、途方にくれていたようです。
それからのクリシュナ・ダスの道は決して
平坦なものではありませんでした。
近所にあるヨガスタジオのようなところで
歌わせてもらえないかと頼んでは断られ、
それでも少しずつ歌える場所が増えていきました。
そして、アメリカで、多くの人の前で歌えるようになるまで、
実に約20年の歳月がかかったそうです。

クリシュナ・ダスのキルタンについて、ラム・ダスは
次にように言っています。

ほとんどの歌手は聴衆に向かって歌います。
でもクリシュナ・ダスはマハラジにだけ向かって歌っているのです。
そしてやがて聴衆は、そこに、激しい愛の思いを聞き取るのです。

以下のサイトでクリシュナ・ダスが、
ハワイのマウイ島で行ったキルタンの様子が見られます。
(最初はハヌマーン・チャリサという
ハヌマーンに捧げる歌を歌っているので、
聴衆とのコール・アンド・レスポンスは
後半になってから始まります。)

横浜のワークショップ・コンサートの案内はこちらです。



# by rd-beherenow | 2018-05-27 16:08 | ラム・ダス

シッディ・マー

ラム・ダスの師、ニーム・カロリ・ババ(通称マハラジ)が1973年に肉体を去って以来
マハラジは数多くの帰依者や寺院をひとりの女性に託しました。
彼女は、シッディ・マー(スピリチュアルな力のマザーという意味)と呼ばれ、
その後40年以上にわたり、マハラジの寺院を、マハラジの帰依者たちを守ってきました。

ある帰依者の本によると、シッディ・マーはホテルを経営する一族の出身であったそうですが、
雨がひどく降る夜に、「もしわしが頼んだら、今この瞬間に、永遠に家族のもとを立ち去れるか」
とマハラジからたずねられ、その場にいた友人のジヴァンティ・マー
(彼女とは終生、行動をともにしました)とともに、すぐに家を出たと言われています。
(『I and My Father Are One 私と私の父はひとつ』ラブー・ジョシ著)

しかし、彼女の名前は表立って報道されることは少なかったようで、
ラム・ダスが編纂した『愛という奇蹟(Miracle of Love)』を私が共訳する前に、
初めてインドのヴリンダーバンにあるニーム・カロリ・ババの寺院に行ったときも、
(そのときシッデイ・マーは、たまたまヴリンダーバンにいました)
寺院にいた他の帰依者たちから「マタジ(母なる存在シッデイ・マーのこと)に会っていかないのか」
と聞かれましたが、事情を知らない私たちは、「誰のことを言っているのだろう」と
不思議に思ったものでした。それでも様々な偶然が重なり、ヴリンダーバンで私たちは
シッディ・マーに初めて会うことができました。
マーは、これからケンチの寺院に行くという私たちに、列車の手配とお弁当と、
ケンチに行ってから寺院に泊まれるようにと、手紙を書いてもたせてくれました。
私たちが旅立つときに、マーは、にっこりと私たちを見送ってくれました。
それからしばらくして、私は相方と『愛という奇蹟 Miracle of Love』を共訳し、
日本語版をマーに渡すためにケンチの寺院を訪ねましたが、
マーはその本の出版を心から喜んでくれ、その時言われた言葉は、
私にとって大切な心の支えとなりました。

ある時、私は、マーが滞在していたリシケシへ行きました。
当時私が泊まっていたのは、ベランダがガンジス河に面したゲストハウスの部屋でした。
その時の私の心には重い苦しみがあり、私は早朝にガンジス河を見ながら、
「マー、この苦しみをなんとかしてください」と訴えていました。
その時ふと「もしかしたらいまこの瞬間、目に見えている世界とは別の帯域で、
空間を超えて、マーは私が言っていることを知っているのかもしれない」と思いました。
何時間かしてから、リシケシの寺院に行くと、
小さな部屋でマーはダルシャン(スピリチュアルな面会)をしていました。
そこにはインド人の女性がいて、涙ながらに
足が急に立たなくなってしまったことを、切々とマーに訴えてしました。
マーは彼女の言葉を頷きながらじっと聞いています。
私は少し離れたところからそれを見ていました。
その時、もしかしたらマーは、このように誰かと話をしていたとしても、
会話をしているという行為が行われているこの現象世界、日常的世界とは違う帯域で、
まったく同時に、私がいま考えていることを知っているのではないか、
という思いが私の頭をよぎりました。
その瞬間、マーは顔をこちらに向けて、にっこりと微笑んだのです。

マハラジが身体を離れた後、無数の人々が彼女を頼ってアシュラムを訪ねているはずです。
脳卒中による半身の麻痺と言語障害が残ったラム・ダスが、その後、
シッディ・マーのもとを訪れたという話も聞きました。
マーは、マハラジが身体を離れたあと、多くの帰依者の心の拠り所でした。
昨年末、12月28日にラム・ダスのサイトに、突然、シッディ・マーのことが掲載されました。


シュリ・シッディ・マー 私たちの聖なる母

マハラジが身体を離れてから、彼は、シッデイ・マーの言葉を通して
ますます顕現するようになりました。
マーは、マハラジそのものである愛を伝えました。
マーは、無条件の愛の広がりのなかにいました。
サットサンガの私たちは、これから、執着を捨て、
彼女の真の自己、魂のなかでマザーに会うことでしょう。
マーによって守られていたと感じていた人々にとって、その守りは今後も続きます。
私たちはみんな、彼女の恩寵の傘の下にい続けます。
マハラジが肉体を離れたとき、私にとって明らかだったのは、
彼が前と変わらず存在し続けているということでした。
同じように、私は、シッデイ・マーのこの形態の変容に喜びを感じます。
彼女の名前は「スピリチュアルな力の母」という意味でしたが、
スピリチュアルな家族である私たちみんなにとっては、
彼女は、ただただ、「母」でした。

ラム・ダス
2017年12月28日

ラム・ダスのサイトには、シッディ・マーが身体を離れた時に掲載された貴重な映像が載っています。


私は今も、シッディ・マーの存在を、かつてより強く感じています。
彼女を慕うすべての人が苦しんでいるときには、
マーはまちがいなくともにいて、導いてくれることでしょう。
Shri Siddhi Ma ki jai!


# by rd-beherenow | 2018-02-12 11:33 | ラム・ダス

死は絶対に安全である

私事ですが、昨日、母が亡くなりました。
88歳という高齢でしたが、田舎のホームで元気に生活し、
毎日、ひとりでウォーキングしたり、買い物に行ったりと、
ずっと元気に暮らしていました。

悪性のリンパ腫だとわかったのが一ヶ月半ほど前、
あっというまに身体は変化し、自分で身のまわりのことができなくなりました。
母自身が、そんな自分自身の体の変化にとまどっているようにも見えました。

夜中すぎにに病院から、あまり状態がよくないという電話があり、
昨日の夕方、私が病院に駆けつけたときは、
少し目を開けて、酸素マスクをつけ、必死に呼吸をしていました。

母の手を握り、頭を撫ぜ、私はなぜか「もう大丈夫だから」と言っていました。
絶対に大丈夫……。すると母は開けていた目を閉じ、
そしてしばらくして、呼吸が止まったのです。

ラム・ダスの師(グル)であるニーム・カロリ・ババの逸話には次のようなものがあります。

別のときに、何人かの帰依者と座っていると、
マハラジは突然、まわりを見回して「人がやってくる」と言った。
しかし、なんの物音も聞こえなかった。数分後、ある帰依者の使用人が姿を現した。
その男が口を開く前にマハラジは、
「彼が死にかけているのは知っているが私は行かない」と怒鳴った。
男はその言葉を聞いて震えあがった。なぜなら彼の主人は数分前にひどい心臓発作を起こし、
マハラジを呼びに行かせたからだった。
しかしながら使用人やまわりの人がいくら説得してもマハラジは行こうとしなかった。
ついにマハラジはバナナをつかむと、その使用人に渡してこう言った。
「このバナナを持っていきなさい。彼は大丈夫だ」。
男はもちろんバナナを持って駆けつけ、
心配していた家族はバナナをつぶして病気の男性に食べさせた。
そしてちょうど食べ終えると、男は息をひきとったのだった。
(『覚醒への糧』第9章「死に逝くことは目覚めのチャンス」)

私たちはふつう命が助かることを”大丈夫”だと言います。
しかしながら、そうではない”大丈夫”があるのだとしたら……。

母が息をひきとって間もなく、
クリスマス前ということもあり、病棟で、明かりを消して看護師さんたちがキャンドルを持ち、
クリスマスソングを歌いながら廊下を歩き出しました。
病棟の廊下には、看護師さんたちがキャンドルを持って歌う「聖しこの夜」が流れました。
「メリークリスマス!」

病院の関係者は、私たち親族に、亡くなって間もないのに申し訳ない、と言いましたが、
私はその歌を聴きながら何とも幸せな気持ちになっていました。

そういえば子供の頃、私の家には鉢植えのモミの木があり、
クリスマスになると、そのモミの木は居間に移されて飾り付けがされました。
おそらくそのモミの木は、一年のこの時期のために、私の家にあったのでしょう。
そこには、子供にクリスマスを味あわせたいという、母なりの優しさがありました。
そして、昨日、病院で看護師さんたちの「聖しこの夜」を聴きながら、私の中には
「おめでとう!」という思いが沸きあがりました。お母さん、ありがとう、そして、おめでとう!

ラム・ダスは、死について
「死は絶対に安全である」と言いました。
私たちの多くが忌み嫌う死が、なぜ「絶対に安全」だと言えるのか。

『ビー・ヒア・ナウ』の翻訳者のひとりである吉福伸逸は、
かつてワークショップで「死とは何か」とたずねられ、
「死とは、私が<私である>と思っているものの外だ」と答えました。

私が<私だ>と思っているものの側からすれば、
死とは絶対に避けるべきもの、恐ろしいものでしょう。
しかし、もし軸足を、私が<私だ>と思っているものから少しずらしたとしたら、
死とは「絶対に安全」であり「大丈夫」なのかもしれません。

私自身、まだそう言い切れる自信はありませんが、
母の死は私に、<生の真実はそこにある>と教えてくれた気がしています。

# by rd-beherenow | 2017-12-21 21:57

私たちはどういう存在か

前回は、「無条件の愛」「〜なら」という条件をつけない愛について書きました。ラム・ダスは、それは「理由のない愛」「対象のない愛」「周りのすべてに広がっていく愛」であり、この愛は、私たちひとりひとりのなかに存在していて、深い存在の一部なのだと言っていました。でも、普段、自分の行動や心の動きを見ても、到底そんなものが存在する可能性があると思えません。なぜ、すべての人のなかにそんな愛があると言えるのでしょうか。

それを考えるために、私たちがどういう存在かについて考えてみたいと思います。

ラム・ダスは『覚醒への糧』の第5章「現実の多様性」で、世界の見え方をチャンネルの比喩を使って説明し、私たちという存在がどういうものでありうるかという可能性について語っています。

小さなダイヤルが頭の横にあって、外界を見るチャンネルを変えられると想像してほしいと断ったあと、ラム・ダスは1番から6番のチャンネルについて語ります。

1番は物質的な世界を見るチャンネルで、このチャンネルに合わせると私たちは、例えば、身体的特徴、人種、服装などで世界を見ます。

2番は心理的に世界を見るチャンネルで、心理学的な特徴、性格などが目にはいります。

3番はアストラル的に世界を見るチャンネルで、例えば、性格の背後にある(ユングのいうところの)原型的な現実、神話的な現実を見ます。この3番チャンネルがあることで、1番や2番のチャンネルで見ていた外界を別の視点から見ることができる、とラム・ダスはいいます。

次に、4番にチャンネルを合わせて他人の目のなかをのぞくとそこには、身体や性格、星座といった個人の差異を超えた実体──ラム・ダスは「魂」という言葉を使っています──が、個人という容れ物のなかにいるのが見えます。私が他人の目のなかに見る存在は例えば、私を見て、「君はそこにいるのか。僕はここだよ。すごいな。どうやってそこに入ったんだい」と語る、とラム・ダスはいいます。

次に5番にチャンネルを合わせると、私たちは、他人のなかに自分自身を見ます。私たちは<ひとつ>であり、<ひとつ>のものが様々な形態をまとった姿であることがわかります。

そして、6番にチャンネルを合わせると、すべてが消え去ります。「誰かを見ている誰か」もなくなり、全部が消滅します。そこでは私たちは、あらゆるものの起源である「空(くう)」に戻ります。

ここで、ラム・ダスが強調しているのは、私たちは誰しも、<常に><同時に>これらのチャンネルのすべてにおいて存在しているということです。しかし、通常は、どこかひとつのチャンネルに入りこんでしまう傾向があり、そのチャンネルによる見え方が絶対的になってしまっています。ですから、自分のなかに、<常に><同時に>4番や5番、6番のチャンネルがあっても、1番や2番、3番のチャンネルにいる自分しか存在しないと思い込んでしまっているのです。理想は、どのチャンネルにも執着せずに、これらすべてのチャンネルを自由に行き来できることです。これらのチャンネルに優越はありません。4番5番6番のチャンネルに執着する存在は、1番2番3番のチャンネルに囚われているひとと同様に自由ではない、とラム・ダスはいいます。例えば、目の前で痛みを感じているひとにたいして「これは現実ではない。心配するな。君はブッダなのだ。すべては幻影なんだ」というひとは、「いたるところ痛みや苦しみだらけだ。まさに地獄だ。人生は辛く醜い」というひとと同様に解放されていない、のだと。自由な存在とは、あらゆるリアリティ(現実)を同時に生きています。彼らは、苦しみがあればそれを和らげるためにできることは何でもしながら、同時に、苦しみというものも完璧さそのものであり、苦しみを和らげるためにする行為も完璧さの一部であるとわかっている存在なのだ、とラム・ダスは言っています。

ここで、最初の問いに戻りますが、とても「無条件の愛」など可能に思えない私のなかにも、そのような「愛」が存在し、この私という存在の一部であると言えるのなぜでしょうか。それは、チャンネルという比喩でラム・ダスが語っていたように、私という存在のなかには、同時に1番から6番のチャンネルがあるはずだからなのでしょう。ただ、私にはそれがわからない。1番や2番、3番への囚われが大きすぎて、気づかない。ラム・ダスの言葉を借りれば、私は私自身を「過小評価」しているわけです。

私たちという存在とは何か。ラム・ダスは次のように語っています。(『覚醒への糧』第13章「メソッドを超えて」252頁)

(……)私たちにはブッダやキリストがもっているすべてがある。私たちみんながそうだ。
そして、このことに気づきはじめただけで、不思議なことが起きてくる。
問題は、私たちが自分の美しさに気づくのを怖れていることだ。
取るに足りない存在でいようと必死でしがみついている。
むしろ、偉大な人の前に座っている愚か者でいたほうがいいと思っている。
そのほうが思い描いている自分の姿に似合うと思っているのだ。
もう十分だ。私たちは美しい。

私たちは、おそらくとてつもなく愚かなことを、醜いことをします。でも、まったく同時に、途方もなく美しい存在なのかもしれませんね。


# by rd-beherenow | 2017-10-27 11:43