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ラム・ダス  「いま・ここ」に在ること

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私たちはどういう存在か

前回は、「無条件の愛」「〜なら」という条件をつけない愛について書きました。ラム・ダスは、それは「理由のない愛」「対象のない愛」「周りのすべてに広がっていく愛」であり、この愛は、私たちひとりひとりのなかに存在していて、深い存在の一部なのだと言っていました。でも、普段、自分の行動や心の動きを見ても、到底そんなものが存在する可能性があると思えません。なぜ、すべての人のなかにそんな愛があると言えるのでしょうか。

それを考えるために、私たちがどういう存在かについて考えてみたいと思います。

ラム・ダスは『覚醒への糧』の第5章「現実の多様性」で、世界の見え方をチャンネルの比喩を使って説明し、私たちという存在がどういうものでありうるかという可能性について語っています。

小さなダイヤルが頭の横にあって、外界を見るチャンネルを変えられると想像してほしいと断ったあと、ラム・ダスは1番から6番のチャンネルについて語ります。

1番は物質的な世界を見るチャンネルで、このチャンネルに合わせると私たちは、例えば、身体的特徴、人種、服装などで世界を見ます。

2番は心理的に世界を見るチャンネルで、心理学的な特徴、性格などが目にはいります。

3番はアストラル的に世界を見るチャンネルで、例えば、性格の背後にある(ユングのいうところの)原型的な現実、神話的な現実を見ます。この3番チャンネルがあることで、1番や2番のチャンネルで見ていた外界を別の視点から見ることができる、とラム・ダスはいいます。

次に、4番にチャンネルを合わせて他人の目のなかをのぞくとそこには、身体や性格、星座といった個人の差異を超えた実体──ラム・ダスは「魂」という言葉を使っています──が、個人という容れ物のなかにいるのが見えます。私が他人の目のなかに見る存在は例えば、私を見て、「君はそこにいるのか。僕はここだよ。すごいな。どうやってそこに入ったんだい」と語る、とラム・ダスはいいます。

次に5番にチャンネルを合わせると、私たちは、他人のなかに自分自身を見ます。私たちは<ひとつ>であり、<ひとつ>のものが様々な形態をまとった姿であることがわかります。

そして、6番にチャンネルを合わせると、すべてが消え去ります。「誰かを見ている誰か」もなくなり、全部が消滅します。そこでは私たちは、あらゆるものの起源である「空(くう)」に戻ります。

ここで、ラム・ダスが強調しているのは、私たちは誰しも、<常に><同時に>これらのチャンネルのすべてにおいて存在しているということです。しかし、通常は、どこかひとつのチャンネルに入りこんでしまう傾向があり、そのチャンネルによる見え方が絶対的になってしまっています。ですから、自分のなかに、<常に><同時に>4番や5番、6番のチャンネルがあっても、1番や2番、3番のチャンネルにいる自分しか存在しないと思い込んでしまっているのです。理想は、どのチャンネルにも執着せずに、これらすべてのチャンネルを自由に行き来できることです。これらのチャンネルに優越はありません。4番5番6番のチャンネルに執着する存在は、1番2番3番のチャンネルに囚われているひとと同様に自由ではない、とラム・ダスはいいます。例えば、目の前で痛みを感じているひとにたいして「これは現実ではない。心配するな。君はブッダなのだ。すべては幻影なんだ」というひとは、「いたるところ痛みや苦しみだらけだ。まさに地獄だ。人生は辛く醜い」というひとと同様に解放されていない、のだと。自由な存在とは、あらゆるリアリティ(現実)を同時に生きています。彼らは、苦しみがあればそれを和らげるためにできることは何でもしながら、同時に、苦しみというものも完璧さそのものであり、苦しみを和らげるためにする行為も完璧さの一部であるとわかっている存在なのだ、とラム・ダスは言っています。

ここで、最初の問いに戻りますが、とても「無条件の愛」など可能に思えない私のなかにも、そのような「愛」が存在し、この私という存在の一部であると言えるのなぜでしょうか。それは、チャンネルという比喩でラム・ダスが語っていたように、私という存在のなかには、同時に1番から6番のチャンネルがあるはずだからなのでしょう。ただ、私にはそれがわからない。1番や2番、3番への囚われが大きすぎて、気づかない。ラム・ダスの言葉を借りれば、私は私自身を「過小評価」しているわけです。

私たちという存在とは何か。ラム・ダスは次のように語っています。(『覚醒への糧』第13章「メソッドを超えて」252頁)

(……)私たちにはブッダやキリストがもっているすべてがある。私たちみんながそうだ。
そして、このことに気づきはじめただけで、不思議なことが起きてくる。
問題は、私たちが自分の美しさに気づくのを怖れていることだ。
取るに足りない存在でいようと必死でしがみついている。
むしろ、偉大な人の前に座っている愚か者でいたほうがいいと思っている。
そのほうが思い描いている自分の姿に似合うと思っているのだ。
もう十分だ。私たちは美しい。

私たちは、おそらくとてつもなく愚かなことを、醜いことをします。でも、まったく同時に、途方もなく美しい存在なのかもしれませんね。


by rd-beherenow | 2017-10-27 11:43